蓮舟寺の開基
鎌倉時代の承久年間
親鸞聖人が関東にて教化のとき入信し
安藤九郎為信(蓮信)の布教により始まりました
安藤九郎為信は鎌倉時代の承久年間宗祖「親鸞聖人」関東教化の際に聖人の教えに帰依し弟子となり法名を「蓮信」としました。
蓮信は、常陸国瀧江城脇に瀧江御堂を建立し布教に努めます。
その後、戦乱を避け信濃の国へ移った蓮信は79歳で往生し、蓮信の孫の安藤直次郎義隆が出家し瀧江御堂を継ぎました。
川中島の戦いにより御堂が炎上し、三河の国へ・・・
それから9代約270年後、天文の年に川中島の戦いで御堂が炎上したため三河の国へ移ります。
その後、三河の一向一揆の難から逃れ元和9年(1623年)現在の地へ移りました。
時の住職「南梁」は、本願寺准如上人が江戸へ下向の折に東海道袋井宿へお迎えし当寺の由緒を門徒(檀家)とともにお伝えし、上人から龍江山蓮舟寺の寺号をたまわり初代住職となり翌年本堂を建立しました。
以来、激動の時代を超え仏法聴聞、念仏相続の道場として法灯絶やすことなく今日にいたります。
本堂
安政の大地震。全壊からの再建
現在の本堂は江戸時代末期安政の時代
大地震により全壊し、その約2年後に建立されました。
輦台(れんだい)
本願寺ご門主が大井川を渡る時にご使用
本願寺ご門主が東海道通行の際に使用される、大井川越え専用の台。
ご門主の通行が蓮舟寺に知らされると、門徒一同で金谷まで運び往復の用が済めば、また蓮舟寺まで戻していたと伝えられています。
蓮舟寺は大井川より西側で一番近くお抱え寺として扱われていた為、本願寺より土蔵を建て輦台(れんだい)の保管を命ぜられていました。
また輦台(れんだい)の後ろの鶴の襖戸は、文化文政年間に横須賀藩主にお抱えられた絵師「大久保一丘」のもので、掛川市文化財に指定されています。
太子堂
横須賀城14代城主「西尾隠岐守忠尚」公から木像と太子絵を寄進により建立
横須賀城14代城主「西尾隠岐守忠尚」公が享保年、大坂勤番の際に四天王寺に参詣し大法印登順師より聖徳太子の木造を勧請され横須賀城に持ち帰ったところ、横須賀の地が安泰に栄えたことから広く城下の人々が参拝できるようにと木像と公が描かれた太子絵を蓮舟寺にお預けいただきました。
太子堂は公の寄進により宝歴13年(1763年)に建立されましたが、安政の大地震で倒れ、現在のものは明治13年(1880年)に再建されたものです。
蓮舟寺には蓮信が親鸞聖人の御自仏であった聖徳太子尊像(木造)が現在も寺の宝物としてご安置されています。
公は親鸞聖人が和国の教主と呼ばれ、太子様の木造が蓮舟寺にあることをお聞きされたこともあり木造と太子絵を蓮舟寺に預けたそうです。
また聖徳太子は「サシガネ」等職人の宝道具を考案され広められた方でもあり、蓮舟寺と城下の職人「太子講(現在:大須賀建築職工組合)」によって現在も護られています。